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イギリスの食文化研究家、食のダイレクター/編集者/ライターの羽根則子がお届けする、イギリスの食(&α)に関するつれづれ。chattex アットマーク yahoo.co.jp


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嬉しかったのは、4歳の七五三


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発熱・風邪、コロナ、と10月中旬からぐったりしていて、
まだ本調子ではないけれど、少しずつ日常を取り戻す日々。
用事以外では、まだ外に出歩かないものの、お天気もいいから、近所の神社まで散歩。

七五三、かぁ。
晴れ着姿の小さい子供、彼らの親や祖父母(多分)の姿がちらほら。無条件にかわいいなぁ。
若い親御さんも、特に女性は、このときは晴れ着を着るんだねぇ。

私もやったな、4歳(幼稚園)と6歳(小学校1年)で。
5歳と7歳でないのは、数え年、ってことでなく、早生まれだから。

4歳のときは、その頃住んでいた四軒長屋の市営住宅の近くの八幡様で。
参道に大きな銀杏の木があって、地面はすっかり黄色い絨毯になっていた。
小さい頃から小さかったので、もらった千歳飴が地面にそびくんじゃないか、って気にしてた。
6歳の七五三は小学校を休んで、だったし、
今と銀杏の色づく時期がずれている、とはいえ、11月15日にやってたのかも。

このとき、母方の曽祖母が来てくれて、これが嬉しくってね。
手を繋いで一緒に写真を撮った。
ベタベタまぶりつきたいのを理性で必死に抑えて、はしゃぎすぎないようにして。だから写真の中の4歳の私は緊張感いっぱいの表情をしている。

このとき、曽祖母は泊まっていったのかな?
私は、両親ともの祖父母と縁が薄く、彼らが泊まりに来たことはなかった。運動会やお遊戯会に来たこともない。入学式/卒業(園)式や誕生日も、別にどうこうはなかった(もっとも周囲もそんな感じだった)。
両祖父は早くに亡くなったし、彼らは、特に母方の祖父はかわいがってはくれたけれど(私だけ特別、ではないけど)、来てくれたことはなかった。訪ねると「よお来たのぅ」と言って目を細めてくれた。
両祖母とは、お互いに愛情が淡白で、彼女らは明らかに他の孫が好きで、こちらもさほど懐いてるわけではないから、そんなもんよね〜、と思っていた。

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曽祖母は、ごくたま〜にだけど、来てくれたのよね。泊まってくれるとなると、余計に嬉しくって。
口数が多いわけではなく、誰かを特別に、ってこともなく、いつもそこにいて、うんうん、と頷いている人だった。

なので、4歳の七五三から4年後、母方の実家に預けられたときも、
曽祖母とずっと一緒、同じ部屋で寝泊まりするのが、とにかく嬉しくって。
食事の席も隣り、新聞を隅から隅まで読む人だったので一緒に眺めたり、朝晩と仏壇でお経をあげる時も一緒にいたり(なので、すぐに覚えてしまった(笑))。
後に、本来の家に戻ることになった時、私はその家の子になって曽祖母とずっと一緒にいたかったけれど、そうもいかず、しょうがない。こうのは、本当に致し方ない。

絶対安全地帯
だったんだろうな。

親といちばんバチバチやり合っていたのは幼稚園児の頃、3〜4歳だった。 家出もこの頃。
いたずらや活発が過ぎる、のではなく、自分が納得したことしか動かない、???にはとことん反発するので、 「この子は我が強い」とよくこぼされた。
愛情がないわけではない。でも、当然なんだけど親子といえど他者、理解し合えない、当惑しているのは伝わってくるから、それもあって、100%委ねるような感情を親に抱いたことがない。

曽祖母はすべてを、歪みがあり欠落しているところの大きい私を丸ごと受け入れてくれたので、それで私も安心しきってすっかり懐いたんだと思う。
疑いの余地なく信頼できる人って、出会わないもんね。

小学校中学年の頃、敬老の日の宿題、だったかな、おじいちゃん・おばあちゃんに手紙を書きましょう、みたいな宿題があって、
何の迷いもなく曽祖母に宛てて手紙を書いた。
その後、郵便で返事が来て、それも嬉しくって、今も大事にとっている。
曽祖母の思い出も、きれいな箱に入れて、私の心の深いところに大事にとっている。
でも、たまには、埃をかぶらないように、取り出して抱きしめないと、ね。

by ricoricex | 2024-11-05 00:00 | 私が昭和の子供だった頃