1997年に直木賞受賞、それ後テレビドラマ化されたので、タイトルは知っていた。
内容も、ざっくりと、おぼろげながら。
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図書館をブラウズしていたときに目について、読んでなかったな、
2001年の9月11日のアメリカ同時多発テロ事件とどっちが先だったっけ?も頭に浮かび、借りてくる。
食指が動かなかったのは、いくらなんでもこれは大袈裟だろうと思えたタイトル(編集者はほかのタイトルにしようと思わなかったのだろうか。こんな言葉使っちゃおう、は昨今のやたらカタカナ語を繰り広げるビジネスマンの感覚と同じじゃないの)と学校の先生を連想させる作者の名前から。
四半世紀以上経って、はて、どうかな?
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猛烈に違和感を覚えた。
無性に腹が立った。
これが、『女たちのジハード』読後の、私の感想。
この、あまりにも昭和なステレオタイプはいったいいつの時代だ?
世に出たのが平成で、1997年だと私は20代後半だから、まさにこの小説に描かれている人物たちと同世代だけど、こんな感じじゃなかったよ、少なくとも私も私の周囲も。
私自身は基本抑圧のない環境でずっときて、うるさいことを言われなくって、私が通った高校は女性が極端に少なく(それは女性には難関だったことを意味するんだけど。今は違う)、入学したらどうしたって女性の方が圧倒的に優秀、という状況で、進路相談などでも女性だから男性だからどうこうはなかった。
また、私のような労働者階級では、専業主婦はあり得ない。
働くのが当然。女性が輝くとか自己実現とか、何寝言言ってんの?って感じ。
そうしないと、食べていけない。女性が家計を支えてる家もあったし。
まあ、確かに、上京したら東京の人って保守的だなぁ、って驚いたのも事実ではあるんだけど。
1970〜80年代なら、まだわかる。
1990年代も半ばを過ぎ、一般企業や社会は、まだこんなだったっけ?
業界や会社にもよるだろうから、まったく違った、とは言わない。でもそこから逸脱することは、景気低迷が始まりかけたこの頃は、まだまだ元気な社会で、もしかしたら今よりも容易だったんじゃないかな。
男性優位社会の中で戦う、とかって触れ込みだけど、
その社会で、男性を値踏みしてすがろうとしている登場人物たちの姿には到底感情移入はできない。
何それ、自分のことは棚に上げときながら、どの口が批判して文句言ってんの?
あとなぁ、新規事業をするとか留学をするとか、そのきっかけも、そこに書き方も、あまりにも浅い。
上っ面で、まったく血が通ってなくって、なんじゃこれ!
学校の優等生が机上でこうなんだろうな、を資料を一生懸命読んで書きました、から抜け出せていない。
心情表現とかも、とにかく文章がベタでヘタ。
全体を通して、深みってものがないんだよなぁ。
それとすごおく不思議なんだけど、会社の人とプライベートでもこんなにベタベタするもんなの? こんなにプライヴァシーをさらけ出すもんなの?
他者との距離の取り方が近くって、こういうのってせいぜい大学(というか最終的な学校)までじゃないの?
私は、自分自身が小さい頃からつるむ、ってことをしないで、傍観者的なところがあったので、そう感じるのかもしれないけれど、
それでも、この近しい繋がり方は、とっても気持ち悪い。
ステレオタイプな社会から抜け出そうとする女の人たちを描こうとして、
そこに足元をとられて、いちばん抜け出せていないのは、作者だった、そんな感じ。
直木賞受賞した作品で、その分野の小説ではあるけれど、果たして賞を受賞するに値するレベル、かな?
もっとも、この手の小説は篠田節子の本領ではないらしい。
そうだろうな。
この人はこの手のものを描くには、まったく不向きだと思うよ。