全身に冷水を浴びせられたように悸然とした。
ティーンエイジャーで初めて出逢ったときのことだ。
個人的な心情を赤裸々(と思えた)に綴り、ミニマムな音数にのせた曲の数々で、心臓をぶち抜かれたのである。
広く世に出るものとしては、パーソナルな事柄は見てはいけない、のぞいてはいけないことと捉えていたし。
生涯の一枚を選べ、と問われれば、間違いなくこれだろう、私は。
『ジョンの魂』(John Lennon/Plastic Ono Band)は、自分と対峙させられるから、おいそれとは聞けない、精神状態がよくないと、なかなかタフでもあるし。
BGMにはなり得ない。いつの間にか正座している。
極私的なことを世に出したのとともに驚いたのは、極私的なことを極めれば大衆性を獲得するということ。
10代の私はそんなこと思いもよらなかった。
MTV全盛期、大衆性とは、最大公約数を探り、ヒットのシステムみたいなのにのっとって、運が良ければ得られるものだとばかり思っていた。
・・・
図書館に先に予約を入れたのに、早く順番が回ってきたのは『放蕩の果て』の方だった。
別に構わない、どちらも読みたかったから。
『放蕩の果て』を返却して程なく、
『保守とは横丁の蕎麦屋を守ることである』が回ってきた。
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福田和也は何より、文章がうまい。
文体の好き嫌いを差し引いても、うまい。
文章の向こうに、風景が見える。その人が見える。
私はたいてい4〜5冊の本を並行して読んでいる。
最近ではその1冊が小説で、内容とか構成とかもろもろなじまない、ってのもあったんだけど、文章がダメで、一生懸命資料にあたりました、それはわかる、でもそれを登場人物の血肉にまで落とし込めていなくって(少なくとも私はそう感じる)、感情移入というか、わかるわかる!にならない。お勉強して、上っ面を整えたレポートに読めて仕方がない。
なので、スタイルの好き嫌い、内容への賛否はおいておいて、プロの文章にふれるとほっとする。
『保守とは横丁の蕎麦屋を守ることである』は、
サブタイトルは、
“コロナ禍 「名店再訪」から 「保守再起動」へ”。
版元の案内文には
“名店とは客と街、時代と歴史が織りなす文化そのものである――美食痛飲の限りを尽くし10年に渡り体調を損ねた破滅的な快楽主義者が、名店再訪から新たな保守思想を立ち上げる!”
とある。
着地点に掲げている「保守再起動」は果たしてそうなのかどうか、とってつけたような感がある。
むしろ、私はこの本を、コロナ禍を通しての、個人の記録、店の記録、街の記録、時代の記録、そしてコロナの記録、コロナ以前/真っ只中/以降、そこに見出せる、身近なところに存在する“保守”と読んだ。
サブタイトルにある“名店”は注意が必要である。
誰にとっても、の、料理が云々、技術が云々、の有名店ではない。本書によって初めて知った、という店もあるだろう。そういう読者が多いのではないかと想像する。
これらの店は著者自身のパーソナルな思い出に直結している。でも文章を読みながら追体験することで、読者は自らの名店に思いを馳せることになる。
パーソナルな事柄が大衆性を獲得する瞬間である。
でも、それは作家にしっかりとしたパーソナリティーと表現する技量がないと、できない。
そして、この技量とは、こねくり回したり、小難しくしたりして、煙に巻くことではない。
平易でスムーズに入るものにしないと、広く人々に届かない。
一見簡単そうなものほど、どうしたって難しいのだ。
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ブックデザインもいい。
ただ、サブタイトルと目次が記されたカバー袖の色文字のコピーが、やや大袈裟に思える。
本文では、途中、角川春樹、石原慎太郎についての文章が入る。
“保守”という着地点ゆえ、補足の意味もあって入れたんだろうけど、私には要らない。
やや唐突な印象は免れないし、話を広げたなぁ、主語を大きくしたなぁ、って感じる。
連載をまとめたとはいえ、むしろ9本ある本文を1.5倍くらい、追加の書き下ろしを加えるなどして、14〜15本にしてほしかった。
そして、私の読み方である、これらの飲食店再訪を通じての“保守”に徹した方が良かったのではないか。
文章はうまい(うまい、ってのは上から目線ですが、、、)。読ませる。
自己を突き放した客観的視点で、ベタベタしていないところがいい。
個人の思い出、店のこと、時代背景、街の景色、コロナ、と、それぞれの要素を融合させつつも、すんなりと読める。支離滅裂になりそうなところで、なかなかできることではない。感服する。
それだけに構成が、私が編集者ならこうしないだろうなぁ、と思えて、残念である。