
もはやその内容がどうこうとか、ましてや正義とは、という向かい方では毛頭ない。
1年半ほど前に起こった騒動はなんだったのか。
その経緯の記録を読みたいと思ったのだ。
図書館の、やっと順番が回ってきた。
今日は移動と、ちょっとした待ち時間が何度かある日で、その時間を利用して、とりあえずざっと読み終えた。
とりあえずざっと、なので、きちんとしっかり読んだわけではない。
私のくせで、いらちというかせっかちというか、次へ次へ、早く最後まで辿り着きたい、と気が急いてしまうので、こぼれてしまっていることも多いだろう。
追って読み返す。
するする読めるけれど、観念的な表現が多く、あまり頭に入ってこない。
文体が私にさほどなじまないのかもしれないし、
新書なので制限があるけれど、もう少し構成を工夫してもよかったのでは、とも思う。
もとはネット記事で、そのままでないにしろネット記事なら確かに読みやすいように思えるけれど、本というパッケージでは再編集した方がいいことがほとんどだから。
この本の流れにあって、著者の小山田圭吾への肩入れが若干高いのも気になる。客観的に徹して、個人の意見は淡々と述べる方がよかったんじゃないかな。
それはそれとして、昨今のファストなんちゃらとかコスパ/タイパとは真逆の位置にあり、それがいいと思った。これこそがこの本の価値だと思った。
物事は単純ではない。ていねいに記録することでやっと見えてくる風景もある。
編集という立場だからよくわかる。
同じ取材をしても企画や媒体によって、切り取り方は変わってくる。
それは、やろうと思えば、全体としてはそうではなかったのに、故意に一部分にだけ焦点を当てて、取り出して見せることも可能であることを意味する。
だからこそ、起こったことを、過去の資料にも当たって、漏らさないように丹念に、書き手が勝手に取捨選択せず、記録に残す。
『東京の生活史』をはじめ、ここ数年、いい本だな、と印象に残る本でも感じることでもある。
とりあえずあらすじを、とりあえず結論を、の風潮だと、
ある一部分だけが切り取られ、それが総論として大きくひとり歩きし、
さらにソーシャルメディアで伝言ゲームで伝えられるうちに歪曲される、ということも起こる。おいおい、そうじゃないだろ。
そんな時代へのアンチテーゼとしても読めるのだ。

