
(湯澤規子 著/光文社新書)
まだ読んでいない。
2か月ほど前に図書館で借りてきて、パラパラめくり、
これは労作に違いない!とすぐに買った。
この本のテーマは、かねがね私が、不思議だな〜、と首を傾げていることのひとつ(他にもいろいろある)。
3年ちょい前、東京に戻って間もなく出版社の方と話しているとき、
“おふくろの味”“お母さんの味”みたいな企画を嬉々として語られたので、
「その企画もタイトルも、今後まずいんじゃないですかね。実際、母親だけが家庭の食事を担っているわけではないでしょうし」と返すと、絶句された。
ファミリーマートの『お母さん食堂』が問題視され浮上したのは、その年の暮れだった。
本の感想はいずれ読み終わってからとして、こういうことに疑問を持っているのは、ジェンダー云々の観点からではない。私自身が母親の、母親だけの味で育ったわけではないからである。
・・・
子供の頃、近所の仲の良い家族と、コミューンとはいわないけれど、助け合って生活していた。
共働きで、それは女性の活躍とか自己実現とかいう大それたものではなく、現実問題として働かざるをえないから、生活できないから、である。ワーキングクラスとはそういうものだ。
専業主婦や働くという選択肢があるのは贅沢なことで、ミドルクラス以上の話である。
幼稚園から帰ると家には誰もいなかったから近所の家に寄ったり、母が週末勤務ならば、彼女抜きで近所の家族と出かけたり、逆もあって、幼稚園の同級生を、母親が出産だったのでうちで預かり、1〜2か月一緒に過ごしたこともある。
私自身、預けられたことは珍しくない。近所を転々としたこともあるし、親戚の家にも滞在し、長いときで数か月を過ごしたこともある。
なので、私の舌を培ったのは、自分の家だけではない。他の家もおおいに影響している。
そして、男の人が手がけるものも、そこにはある。ちょっとしたおかずもあったし、大きな魚を一尾丸々、肉の塊をさばくのは男性陣が多かった。
いろんな家があった。
自分の家では食べないものもよその家では経験した。
料理が上手な家もあれば、そうでもないところもあった。そもそも食事にそこまで労力も関心も払わない家もあった。
料理が不得手だからって、別に何とも思わなかった。不平不満はなく、この家はそうなんだな、と納得しただけだった。その家の人たちも別段、それについてどういう言うことはなかった。
そういう家で思い出すのは、料理の内容云々よりも、楽しく食卓を囲んだことである。
ご法度とされているけれど、テレビを観ながらあーもないこーでもないと喋ったり、笑ったりしたのは、いい思い出である。
・・・
この本は「おふくろの味」がテーマだけど、さらに進んで、手作りこそが大事!愛情の証! みたいな流れになりがちで、これにも積極的に異議を唱えたくなる。
私自身の家、父は料理ができなかったけれど、母はマメで、喫茶店で働いていた経験もあり、そういうものも食べてきたし、今も盛り付けが喫茶店っぽいのよね。斜めにスライスしたきゅうりを3枚、トマトのくし切りを添える、とか、ね。
小学校3年の数か月預けられた家では、料理に重きをおいていなかった。
料理が得意でないし、得意でないものは無理してやらなくてもいい、みたいな感じだった。4世代が一緒で、誰も特に何も言わず、それは諦めとかでもなく、ごく当たり前のこととしてそこにあった。
食卓自体はいつもわいわい賑やかで、とても楽しかった。
その家ではホットプレートを多用した。
焼肉だったり、といっても毎度牛肉ではなく、かしわ(鶏肉)メインで、野菜を炒めたり、個包装で袋売りの安っちいハンバーグやウィンナーなんかもホットプレートで焼いて食べていた。お好み焼きもよく作った。
準備としては素材を切るだけ、みたいな、ね。
あとは、海に近い、ってのもあって、お刺身や、かまぼことかの練り物もよく食べたなぁ。
今なら手抜き、と言われるのだろう。
手作りの料理とは言いがたい。では、それで愛情が乏しいか。そんなことはまったくない。
その家でも、他の家でも、どこでもたっぷりの愛情をかけてもらったよ。どこの家でも幸せだったよ。
愛情の表現の仕方や与え方は人によって違う、それを知り得たのは豊かで貴重な経験である。
「おふくろの味」「料理は愛情」に私が反発し、ときに憤りすら覚えるのは、
私を預かり愛情を注いでくれた家やその人たちが踏みにじられているように感じるからだ。
・・・
愛情は、母親の味や料理でははかれない。はかるものでもない。

