
通りや電車で見るようになった子供たちの姿、
ラジオから流れてきた「木綿のハンカチーフ」、
新幹線(11年前の3月13日(日)、最終の新幹線で西へ向かった)、
この連想ゲームから、記憶の引き出しが開いたのは、
1976年、私が小学校2年生にあがる春休み。
小学校1年生の3学期は、「およげ!たいやきくん」が大ヒットして、私もレコードを買って、そのちょっと後に「木綿のハンカチーフ」もヒットして、春休みに歌いまくっていた頃である。
春休みは一番好きな時期で、学校に行かなくていいし(早起きとルーティーンが苦手だった)、
宿題はないし(夏休みの宿題はとっととやっちゃう子供だったけど、それでもやんなきゃ!がないのは気分が良かった)、
その時に住んでいたところと私との相性が良く、
もちろん必ずしもいいことばっかりじゃなかったけれど、それでも楽しい時期としての記憶として刻まれていて、1976年の春休みはその最たるものだったのだ。
なぜか、っていうと、週3回開放されていた習字教室に行って漫画を読みまくったり(いつもは混む土曜日も春休みはのんびりだった。子供達のサロンのようなところで、漫画雑誌がうず高く置いてあった。サンデーもジャンプもマガジンもあったけれど、チャンピオンの全盛期で、私もチャンピオンがお気に入りだった)、
近所の1歳年上の仲良かった人の家に行き、その家で遊んだり、本を読みまくったり(ルパン、ホームズ、ポーなどの怪奇もののシリーズがずらりと並んでいた)、
その彼女とバスに乗って市立図書館に行って、ついでに周辺をぶらぶらしたり(小学校の図書館は休みで、しかもその小学校は学年によって借りる曜日が決まっていて、とても足りなかったので、市立図書館にも行っていたけれど、いつもは帰宅時間の早い父に連れて行ってもらっていた)、
朝からテレビを、『おはよう! こどもショー』、そして大のお気に入りだった『カリキュラマシーン』の後に、『ひらけ!ポンキッキ』も最後までしっかり見られるし、
楽しさ全開だったのだ。
一大イベントが加わったのも、この春休み。
私は、「〜〜したい」は主張するものの、「〜〜してほしい」、例えば「〜〜に連れて行ってほしい」「〜〜を買ってほしい」をほとんどしない子供だったのだ。
「〜〜してほしい」がなかったわけではないのだろうけど、伝える術を知らなくって、その時に理由を加えるのも面倒、というか、自分の気持ちを詮索してほしくなかったのだ。
その私が、おねだりをしたのだ。
親も、私にその傾向があるのをわかっていたのかもしれない。要求はあっさりと認められた。
それは新幹線に乗る、ということ。
小学校に入学した頃の私は、新幹線がとんでもなく速い、というのに、すっかり心を奪われてしまっていたのである。
さぞ速いんだろう、ジェットコースターみたいな疾走感がずっと続くなんて(と、思っていた(笑))。これは体験したい!
1969年生まれなので、東京オリンピックは知らないし、東海道新幹線の開通も知らない。
1975年に新幹線が博多までのびたことも認識していない。
ただ、1975年に新幹線が博多までのびたということことは、本州の西の端にも新幹線が開通したというわけで、ニュースとして頻繁に取り上げられていたのだろう。そこで、速い、速い、が連呼されていて、それがインプットされたのだ。
隣県の福岡は、北九州市にも福岡市にも、おそらく他のエリアも、父が仕事で行っていたし、何よりやり取りは頻繁にあったようで、彼にとっては知らない土地ではない。
単に行く、のであれば、車で、だったところを、新幹線に乗るのが目的で、その願いを叶えてくれたのだ。
在来線を乗り継いで新下関駅まで行って、そこから新幹線に乗って博多まで行った。
もうね、大興奮、なわけですよ。
乗り換えの時のアナウンスとか駅にあった時計とか、はっきりと覚えているもの。
いざ、乗車。
が、が、が。
速さを感じなかったんだな〜。
目で風景が追えるのだ。
全然速くない!
がっくりと肩を落とす私に、近くに視点を移せば、速さを感じると諭され、言われてみれば確かにそうだけど、
じゃあ、なぜ遠くだと速さを感じないのか、という疑問をぶつける。
説明されたけれど、その内容は覚えていない。
おまけに窓を開けられない、というのも不満に加わった。
私は乗り物酔いをしやすかったので、窓を開けるのはお約束になっていて、
在来線だと、ガタゴトとした揺れと頬に当たる風の心地よさがあったのに、
新幹線は揺れの感じも違うし、外気を感じられない。
ふうむ。
博多駅に着いて、路面電車(だったと思う)で天神まで出て、太宰府に向かった、んじゃなかったかな。
当時の福岡市は地下鉄はまだなかった。
路面電車に乗り換えたのと太宰府に向かったのは覚えている。
駅にあった案内だか広告だかの看板も。
アナウンスを聞いて、どこに向かえばいいのかピンときて、スタスタ向かったのも記憶にある。
帰路、博多駅を出るときは日が傾きかけていて、
復路も同じルートだったので、今度こそ遠くを見る、近くを見る、遠くは風景が追いかけられるのに、近くだとビュンビュン去っていく、その違いは何なのか突き止めたかったけれど、新幹線に乗り込んだらすぐに日が暮れてしまって、窓の向こうに見える家の灯りと窓ガラスに映る自分の顔をじ〜っと見ていた。
新幹線は想像していたのと違って、速くなかった(正確には速さを感じなかった)。
でも、それを確認できたこと、そして、日が暮れた後も外の、普段はいないところに身をおいていることに、それはそれで満足したんだと思う。
帰りは、文句を言わず、おとなしくしていたから。
往路の新幹線の中で私はすっかりぶ〜たれちゃっていたけれど、その日も父は終始ニコニコしていた。
日付を超えちゃったけれど、今はお彼岸。
蘇った記憶の、あちら側にいってしまった父の記憶がいいもので、よかったと思うことにしよう。
これを書きながら、あ〜、そういうことか!と腑に落ちたのが、
作家の重松清や、彼と同世代の広島出身の料理人の方が、矢沢永吉の『成りあがり』を崇めているのを見て、内心、はぁ〜?と思っていたのだ。
同様に、九州出身者に言われるハングリー精神、みたいなのも。
たかだか5つ6つ歳が上で、こんなやったるで!みたいな心持ちで上京するかね?ととても不思議だったのだ。
でも、それは新幹線の関わりが大きいのかも、と思いいたった。
1969年生まれの私にとって、きちんと新幹線という乗り物を認識できたときは、すでに新幹線は東京まで運んでくれる乗り物になっていたし、開通したときのどよめきは知らない。
もう現実の生活と地続きで東京はあったのだ。
これ、私だけの感覚じゃない、と思う。
というのも、私が通った高校は当時1学年450人ほどだったかな? うち女性が50人いるかいないかで、半分、とまではいかないにせよ、1/3は東京の大学に進んだのだ。
それはごく自然な選択の中でなされたんだと思う。
私の世代だと、それだけ東京は近くなったのだ、物理的、と同時に心理的に。
そう考えるとちょっとの歳の差で認識が違うことって、大きい。
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