本州の西の端で生まれ育った私は、麺類といえば、圧倒的にうどんだった。
次いで、スパゲッティ(これは母が喫茶店で働いていた時期があったからだと、間違いないく思う)、ラーメン、夏場に素麺。
蕎麦は大晦日に食べるぐらいで、うどんとちゃんぽんにすることもあった。
縁遠かったのは、好きとか嫌いとかではなく、単に我が家の食生活に入ってなかったからである。
納豆も同様(当時は西日本ではメジャーではなかった? 今も食べない、ニオイがダメで、見るのも苦手。口に運べない)。
肉もトンカツとちゃんぽん以外は豚肉が食卓にのぼることはなかった。
大学入学と同時に上京し、自炊は苦ではなかったので、それまでの我が家の食生活をそのまま持ち込むことになる。
私が上京した頃、1980年代終盤には、駅の立ち食いそばや街のそば屋はあったけれど、チェーン店は今ほどなかったと思う。
ズボラなくせに、妙なところで苦手なことがあり、立って食事をするとか、学習机で食べるとか、出来合いのものをそのまま食べるとか(お皿に移したい!のだ)がダメで、行ったことがないのも手伝って、そば屋の暖簾をくぐることはほとんどなかった。
30歳過ぎまで、そば湯もそばがきも知らず、ちょうどイギリスから帰国した頃と重なり、「えっ、知らないの? もしかして帰国子女?」と聞かれる始末。
帰国子女だって知ってる人は知ってるよ。
要はそれだけ、私にとって蕎麦は身近な食べ物ではなかったのです。
ではあるものの、ふと、そういえば子供の頃、親戚のおじさんと蕎麦を食べたことがあったな、と記憶が蘇りました。
よくよく思い出すと、確かにそうでした。
それは、小学校5年生に上がる1979年の春休み、私が10歳の時。
その春休みは1週間か10日ぐらいか、親戚の家に預けられてまして
(と書くと、不幸なニオイがまとわりつくけれど、全然そうじゃない)。
その家は、母の叔母のところで、おばさんは離婚して、成人した子供(母のいとこ)がいたけれど船乗りだったので、たいがいは海の上。
つまり、叔母はたいていひとりで暮らしていたのです。
彼女にとって私は孫みたいなもので、私はほっといていい、手のかからない子供で、ベタベタされることもなく(苦手でもある)、うるさいことも言われず、適度な距離感でちょうどよかった。
だからこそ預けられたんだろうし、快諾もしてくれたのでしょう。
どんな生活だったかな〜、と思い出すと、
朝7時過ぎに起きて、『おはよう700』(TBS系)を観ながら、自分の分の朝食は各自準備。私は、トーストとミロ牛乳。叔母はお味噌汁とご飯。
その後、叔母はパートに。私はテレビを消して、本やマンガを読むか、算数の問題集をやるか(算数大好きな子供で応用たっぷりの問題集を解くのがとんでもなく快感だった)、お天気のいい日には新聞紙と虫眼鏡を外に持ち出して、印刷の黒いところに虫眼鏡で陽光の焦点を当てて煙を出す、というロビンソン・クルーソーになったか(もしくは『ツバメ号とアマゾン号』の世界に入った)の気分の遊び(火が点くまではいかなかった)をしていた。
近くには、彼女の姉、母にとってもうひとり別の叔母も住んでいて、午後、お茶にやって来ることも少なくなかった。
彼女のパートナーは魚市場で働いてて(漁師や商売人ではなく、市場側の人だったと思う)、ということは朝早く、午後早い時間に仕事が終わっていたんじゃないかな。
このおじさんが、仕事が終わって、午後の早い時間、14時とか15時とかによく温泉に行っていたのである。
においをとって疲れを癒す、ってことだったのでしょう。
この温泉行きに私を連れて行ってくれたのである。
私は温泉は好きではなかったけれど、ほかに特別にやることもないし、誘われると喜んでついて行った。
車で10分ぐらいのところにある公共温泉で、おじさんが迎えにきて、一緒に出かけた。
温泉では、たいがい私の方が早く済んで、外で待っていた。
帰路の道のりは、公共温泉を出ての道路は、温泉を出て間もなく鉄道の上を越えて行く、というもの。
鉄道を越えてすぐのところに蕎麦屋があり、「ちょっと食べていこう」と連れて行ってくれたのだ。
おじさんは常連というほどではないにしろ、程よい距離感はあるものの店員さんとのやりとりから、馴染みであるのには間違いないらしかった。
「盛り、2つ」と注文して、さっぱりとした体できっぱりとした蕎麦を食べる。
おじさんにしてみれば子供扱いしないので、相棒みたいな感覚で蕎麦屋に連れて行ってくれたのかもしれない。
その春休みの滞在中、2回行ったと思う。温泉自体は3、4回行ったんじゃないかな。
蕎麦の記憶ですぐに思い出せなかったのは、こういう愉しみは、妹はそこにいなかったので口外してはいけない、という意識が働き、記憶の奥の方にしまいこんでいたからだと思う。
このふたりのおばさんにもおじさんにも、船乗りのおにいちゃんにもかわいがってもらった。
ベタベタした、いかにもわかりやすい愛情とは違うけれど、思い出されるのは目を細めてニコニコしている顔ばかり。
みんなこの世からいなくなった。コロナが落ち着いたらお墓参りに行くとしよう。
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